「清濁併せ吞む」という言葉はよく聞く言葉ですが、意味は以下のような意味だそうです。
心が広く、善でも悪でも分け隔てなく受け入れる。度量の大きいことのたとえ。
善人でも悪人でも、来る者はすべて受け入れる度量の大きさを表すたとえ。
「清濁併せ吞む」の捉え方は難しい
清濁併せ吞むべきかどうか
これは実際に私の経験ですが、私自身、テニスサークルの幹事を長年しているのですが、基本的に世間一般的なルールに則って運営しているのですが、人によって倫理観が違うのか、目的のためならルールを無視してもいいという人が出てきます。
確かに、場合によっては、ルールを守らない方がサークルの運営は円滑に回るのは確かですが、私個人的には、ルールを破ってまでやることではないと考えます。
しかし、ルールを無視してもいいという人は「そんな小さなことを言っていたら人の世に住めないですよ」と言います。
「それで効率がよくなるのであれば、世間が決めた小さなルールぐらい破ってもいいじゃないですか」と。
その人は「それでサークルの人も助かるのであれば、いいじゃないですか。暗黙の了解でもあるでしょうし。他の人もやっているんですから」という。
同調思考というやつでしょうか。
でも、私自身は最後まで腑に落ちないし、仕事もプライベートもルールを守ってやることを信条としてきているので、いくら効率が良くなるからといって、「濁」の部分を飲むことはできないですね。
少なくとも私はしないです。私は商売人ですが、これもルールを破ってまでやるものではないと考えています。そうやって何十年もやってきましたし。
その人には「そんな小さなことを言っていたら人の世に住めないですよ」と言われましたが、実際に何十年も自営業としてやっているので、人の世に住めないことはないと思いますね。少し堅苦しく見えるかもしれないですが。逆に平穏な毎日を送っています。
清濁併せ吞むは本当に度量が広いことなのか?
先述のように、「清濁併せ吞む」が『心が広く、善でも悪でも分け隔てなく受け入れる。度量の大きいことのたとえ。』という意味なら、私の行動や決断は度量が狭いことになるのかな~?と思うのですが、どうでしょう。
悪いことも「みんなやっているから」目をつぶるべきでしょうか。
自分もそれに乗っかるべきでしょうか。
多分そうじゃないと思います。私はそう信じたいですね。
まとめ
個人的には、『善と悪があることを知った上で、他人がそそのかしてきても、自分はわき目もふらずに善の道を進む』ことが大事なのかなと思います。
自分としては、そのように「清濁併せ吞む」を解釈してみようかなと思います。
「みんなやっているから」ルール違反を平気でやりだしたら趣味のサークルだとしても組織は崩壊するかもしれないなという危惧が私にはあるんですよね。
仕事の面でも、プライベートや育児などの面でもしかりです。